REVIEWS | 批評・時評
 
プラープダー・ユンのエッセイ集『座右の日本』。この本の制作背景をご紹介すべく、対談記事を企画いたしました。お願いしたのは、映画『地球で最後のふたり』の舞台裏を詳しく取材されたこともある映画ジャーナリストの立田敦子さんと、『座右の日本』の翻訳を手がけられた国際交流基金職員の吉岡憲彦さんのおふたりです。刷り上がったばかりの本を手に、プラープダーの人物像から、おふたりの「座右のタイ」、映画のお話まで、面白いように話は膨らんでいきました。
<『座右の日本』の翻訳を終えて>

立田敦子(以下、立田) 『座右の日本』は、日本文化に対して一家言あって、かなり積極的に発言しているプラープダーらしいエッセイ集ですね。短編集(『鏡の中を数える』)も読ませていただいて、訳者の方にお聞きしたいなと思ったのは、彼の文を日本語に訳す際、何かをイメージして文体を決めてらっしゃったのか、ということです。原語以外のものは当然、誰か訳者のフィルターを通されるわけで、本当にその著者の声かどうか、読者としては気になりますよね。彼も本書の中(「聞いた話」)で書いていて、ああ、彼もそう思っているんだなと分かったんですけれど。例えばプラープダーの風貌や話し方などを意識したりして訳されたのでしょうか?

吉岡憲彦(以下、吉岡) 僕自身、そんなに文体を使い分けられるほどでもないのですが、例えば男性の「私」、「俺」、「僕」にあたるタイ語は基本的にはひとつしかないんですよ。「俺」みたいな言葉も一応あるんですが、文章ではあまり書くことがないし、エッセイでそれを使ったら、ひどく乱暴に聞こえるので、だいたい「ポム(あるいはポン)」という、英語の「アイ」みたいな言葉が使われます。プラープダーさんもこの言葉を使っているのですが、彼の場合、「私」というよりは「僕」と言っているようなイメージがあります。それから普段の話し方や文体でも「〜だが」よりは「〜ですけれど」みたいな柔らかめなイメージがありますね。なので、そのあたりは少し意識しました。また例えば日本語でも「出現」と「現出」のように、漢字を逆にしても意味が通じる語彙ってありますよね。プラープダーさんの場合は、そういったちょっとマイナーな言い方を選ぶ傾向があると思います。

立田 あえてそういうものを選んでいるんですね。

吉岡 そういう感じがします。うまく置き換えられていないかも知れませんが(笑)、訳出では少し意識したつもりです。タイ語の原語だと、読んでいてちょっとゴツっていう感じがあるはずなんです。あれ、こういう言い方するんだ、みたいな。でももちろん、大江健三郎さんみたいな難解な文章ではないんだと思います。

立田 そういうことについては、ご本人に確認したりなさるんですか?

吉岡 ちょっとだけですけどね。彼は日本語は分からないですし、まあ、訳して下さい、としか言われないんですよ。

立田 日本語は分からないって彼自身も言ってますが、これだけ日本が好きなのに、本当に分からないんでしょうか? 謙遜じゃなくて? 勉強したとも書いていますよね。

吉岡 どうしてでしょうね。全然上達しないですね(笑)。英語とタイ語があまりにできちゃうので、3つめが面倒くさいのかも知れません。

立田 英語ができる方に多いパターンですね。そもそも、吉岡さんは彼とどういう形で出会われたんですか? 吉岡さんが『地球で最後のふたり』のケンジのモデルとも言われていますが。
<『地球で最後のふたり』以前>



吉岡 僕は国際交流基金で働いていて、1999年から2004年までタイに行っていたんです。70年代からある職場なんですけど、自分たちの仕事は日本の文化を海外に紹介することと、海外の文化を日本に紹介するということになっていて、特にマーケットにのらないものをベースにやっていたんですね。僕がタイに行った当時、基金のイベントに来る人の層はけっこう限られていました。広報費がなく、広告を打つことがほとんどできないので、一般になかなか広まらないんです。地道に記者の方に直接電話したりして、手探りで広報活動はやるようにしていましたが、限界がありました。それが映画祭イベントの時に、たまたまプラープダーさんと当時つき合っていた方がいらっしゃって…。

立田 なんという方ですか?

吉岡 ウムさんという女優さんでした。ピンパカ・トウィラさんという映画監督に誘われて来てくださったんです。彼女はペンエーグ(・ラッタナルアーン)監督の『わすれな歌』でも主演した有名な方で、テレビが彼女の動静の取材でついて来たんです。僕らの仕事でそういうことはめったになかったので、すごくビックリしていたら、プラープダーさんも日本に興味があるんだという話を聞き、ピンパカさんがとりもって一緒に食事をすることになったんです。最初はプラープダーさんも基金のことなんか知らないし、どういう意味で日本が好きだったのか僕も分かりませんでしたが、でも彼が何度も来てくれれば、すごく広報効果があるなと思って(笑)、けっこう積極的に話しかけたんですよ。「日本が好きだと聞いたんですけど」と。そしたら、すごくうさんくさそうな顔をされたのを覚えています(笑)。でも何回もイベントをやっているので、その都度案内状を出してお誘いしていたら、ああ面白いじゃないかと、何度も何度も足を運んでくださったんです。こちらも信頼を得て話をしているうちに、実はどんどんエッセイも書いているし、小説も書いていて、次は映画の脚本も任されているんだ、みたいな話を聞きました。
彼は外で仕事をするのが好きみたいなんですが、バンコクの国際交流基金(日本文化センター)には図書館があって、そこへも仕事しに来てくれるようになりました。日本語を勉強している学生などがよく来る、知る人ぞ知る場所だったんですが、無料でずっと座っていられるし、日本の雑誌もあるしというので、彼にとっても都合のよい場所のようでした。

立田 それで『地球で最後のふたり』では、そこの設定を借りたわけですね。それは何年頃ですか?

吉岡 2000年には知り合っていたと思います。そのあと何度かお会いしてから、映画のお話を聞きました。

立田 彼の作家としての最初の印象は、どんなものでしたか?

吉岡 一番最初に、文体がどうだとか、タイ文学の中でどういう位置づけかというよりも、その発想が好きになりました。それまでタイのいろんなエッセイを読んでいても、海外の話を紹介しているエッセイでも、日本にもそういうエッセイはあるから知っているや、と思ってしまいますし、あまりにタイのドメスティックな内容だと入り込めなかったりします。でも彼は自分で考えたことをそのまま書いていている。その発想が面白かったんですよ。
※写真は『地球で最後のふたり』スチール写真。国際交流基金バンコク日本文化センターの図書館が舞台のひとつになった。
<日本への独特のスタンス>



立田 吉岡さんがあとがきに書いていらっしゃった「タイの遅れてきたポストモダン」という指摘は面白かったですね。『地球で最後のふたり』の撮影現場も取材にお伺いしましたが、そのときに初めて彼の文章を脚本というカタチで読みました。印象的なものですが、ちょっと村上春樹さんに似ている部分があって、もしかすると影響を受けている部分があるのでは?と思ったんですね。村上春樹さんは、登場した頃は、よく翻訳文体とよく言われましたよね。私は、もともと彼は海外に出していくことを狙って最初からあの文体で書いていたんじゃないかと思うこともありますが、プラープダーの場合はもちろん米国で生活した経験もあることもあって、通常のタイの作家とは違った発想や文体になるのかなと勝手に想像していたのですが。

吉岡 村上春樹さんのエッセイの時の文体に通じるものは、ちょっと感じたことがありますね。プラープダーさんは、小説の時とエッセイでは全然違います。特に初期の頃は、小説ですごく実験がしたかったんだと思うんです。彼はアメリカで美術を勉強していたこともあって、書くことも好きだけれど、発想はアーティストに近くて、これまでと違う何かをやろうということがすごく大きかったんだと思うんですね。たまたま最初に入り込んだ場が、新聞で批評を書いたり、雑誌でエッセイを書いたりすることでしたから、そこで発想のトレーニングを積んで、アート作品として短編小説を書くという流れを得たのだと思います。

立田 彼もその辺のところは直接的には言わないですものね。第三者のことについてはすごくはっきり発言するけれど、自分のことについて多くを語るタイプではないですものね。日本の雑誌で連載して、それを訳されていた中で、あ、こういう人なんだ、と新しく発見したことは何かありますか?

吉岡 自分の感覚をすごく大事にしますよね。それは初期の頃よりも、最近のほうが思うようになりました。あまり無理をしないで。届く範囲以上のことはあまりやらずに進んでいくイメージがあります。

立田 彼の場合、旅が好きだというイメージもありますが、反対にすごく籠もったイメージもありますね。何もない部屋で一週間ぐらいいても平気そうな。内面的な面と外交的な面については、どうお感じですか?

吉岡 そんなに社交的な感じではないですね。確かに籠もるイメージがあります。プラープダーさんとそんなに外で会ったりはしなかったですが、逆に、会った日は、せっかく会ったんだから、と食事のあと飲みにも行って、かなり長い時間を共有する、というように、その両面をうまく切り替えているんだと思います。

立田 エッセイの中でも、六本木に友人の夜遊びにつき合っていって、自分は中抜けして青山ブックセンターに行くとか(笑)、終電の時間になったら帰るとか、そういうところが村上春樹の小説の主人公みたい。内向性とアクティブな面と両方あるような。まあ、作家でパーティ得意な人ってあまりいないでしょうけど。ところで彼は、普通のタイ人とは違いますか?

吉岡 日本に対する独特なスタンスを持っていますよね。日本がすごく好きと言っていますが、普通、好きな人って、仕事をやめて来ちゃうとか、猛烈に日本語を勉強してはまっていっちゃうとか。あるいは日本が好きという意味がイコール、ディズニーランドが好きとか、浅草が好きとか、そういう典型例が多い中で、入り込み過ぎずに、いろんなことに興味を持っているという立ち位置が、とてもユニークな感じはしますね。

※写真は、初期の短編集の表紙。

<見られている「日本」を実感>

立田 お父様が有名なジャーナリストですものね。妹さんのお名前もシンブンという(笑)。衝撃的なお話でした(笑)。お父様はタイではどのくらい有名なんですか?

吉岡 お父さんのこと、タイで知らない人はほとんどいないと思いますよ。

立田 日本だと、筑紫哲也さんとか?

吉岡 もう少しお茶の間になじんでいる感じというか。普通の大学生とか高校生とかも知っていますから。テレビキャスターでもあるんです。誰に似ているんでしょうね。発言的にはちょっとアグレッシブで「ニュースって楽しい!」みたいな感じの(笑)。

立田 プラープダーとは違うタイプじゃないですか、みのもんたさん?(笑)

吉岡 (笑)。政治問題とか、国際問題にも積極的な方です。一般の方からインテリの方まで認知されている感じでしょうか。

立田 ご本人も、短編小説の中に書いてありましたけど、やっぱり「親の七光り」をご本人も自覚しているんですか?

吉岡 最初はそうだったと思いますが、今はさすがにそうじゃないと思います。デビュー当時は出版記念パーティなどにお父さんも応援にいらしてましたね。それは子どもにそういう場があって単純に嬉しいという親心だったと思うんですけれど。有名な親で人を呼んでる、みたいな批判が出てしまったりとか。

立田 日本ではかえって楽なのかも知れませんね。でもエッセイを読むと、日本でもタイ人の人たちと交流があるらしいですね。日本にいらっしゃるタイ人が増えてるってこと?

吉岡 増えてますよ。2004年には10万人の大台を突破して、2006年1年間で、12万強になったんです。最近バーツが高いし、ツアーでビザが取りやすくなったみたいで、普通のサラリーマンの人が年1回の海外旅行に行けるようになってきて、それで日本を選ぶ人もかなり増えているんです。

立田 そういえば、去年取材で泊まったバンコクのホテルの広報の方も、年に1回、家族で日本にいらしているとか。

吉岡 バンコク側にいると、本当に日本が見られているのを実感します。とにかくよく見られていて、プラープダーさんだけじゃなく、いろんな方たちが日本について書いているし、雑誌で特集があります。テレビでもちょっとつけると日本の特集をやっていて、この間もタイに帰って、ホテルでたまたまつけたテレビが日本特集で、アダルトビデオの話になっていて(笑)。

立田 プラープダーのエッセイ(「ポルノ・ギフト」)にも書いてありましたね。日本のイメージの中に、エロビデオがあるっていう…。私は衝撃的でしたけど(笑)。お茶とか冨士山とかよりも、今の若い人たちの間では、そっちのほうがよく知っているってことなんですね。

吉岡 インターネットで全部つながっていますよね。
<半分タイ人、半分アメリカ人>

立田 インターネットといえば、私がプラープダーに感じるのは、最後のアナログ世代ではないかということです。新世代の感じはしなくて、どこか古い、日本でいえば、昭和の匂いのようなものすら感じるんですよね。年代的には新世代でも、インターネット世代とかブログ世代とか、携帯世代という感じは全然しないんです。

吉岡 ぎりぎり一歩手前ですよね。僕もぎりぎり旧世代だと思いますが、日本では、1995〜96年にまだ大学生だった人ぐらいから、インターネットの使い方が全然違うんだと感じたことがあります。でもタイはもう少し後で、2000年か2001年ぐらいからなんですけど。今はもう全然違いますよね。

立田 彼以降の作家、インターネット世代の作家はたくさん出てきているんですか

吉岡 恐らくブログではいっぱいいるんだと思うんですけど、それが出版されて話題になるというのは、僕はまだ聞いていないですね。

立田 そういうところは日本より2〜3年、遅れ気味なんでしょうか?

吉岡 遅れているというよりは、これは僕個人の仮説ですけど、タイ人の圧倒的大多数に影響している仏教の存在が大きいのではないかと思います。精神的な部分でタイも荒廃してきているとは言われていますが、仏教がなお確固とした基盤になっている部分があって、普通におしゃれしている若い女の子とかも、日曜日はお寺に行くっていう子が結構いるんですよ。ペンエーグ監督もインタビューで、映画が始まる前にはお祈りに行くと言っていますし。都市的な生活様式が行き渡っても、精神的な部分では仏教がしっかりあって、ひょっとするとそのおかげで、糸の切れた凧のようになって何かを探すとか、インターネットで現状について綴るとか、世の中に問うとかいう発想があんまりないというか、文学のテーマとして深く掘り下げていき、そこに読者の共感を得ていくという動きが出ないのかなあと思います。

立田 私はプラープダーの本を読み、ご本人にもお会いして、やはりアメリカで教育を受けた人という印象が強かったですね。半分タイ人だけと半分アメリカ人、インターナショナルな人というイメージが。ペンエーグ監督もタイ人っぽくない。やっぱり帰国子女なわけですよね。そういう意味では、あの二人は似ている感覚があるし、文学でも映画でもタイの文化に対する立ち位置も似ていると思うんですよ。ペンエーグの映画も、ノンスィ(・ニミブット)監督とかに比べると、タイっぽくないというか、むしろ無国籍風というか、半分アメリカ風というか、そういうところがあると思うんですけれど。ああいう帰国子女世代も増えているんですか? 韓国や香港では、そういう人たちが映画界でたくさん活躍していますね。

吉岡 いっぱいいますね。経済界や政界では、相当前から海外留学組が活躍しています。むしろ芸術のほうが遅れて出てきたかも知れません。
<セレブリティの衣を脱いで>



立田 アピチャッポン(・ウィーラセタクン)監督にも、この間インタビューしました。すごくいい方で、頭もよくてお話は面白くて。フランス語もお出来になるんですよね。山形映画祭に今年、審査員でいらしてたんです。

吉岡 アピチャッポンさんに最初に賞を渡したのって、山形なんですよ。1999年に。でも日本ってそれを助ける体制がないのがもったいないですね。彼の才能もフランスのほうはよく分かっていて、彼が映画を作る時に…

立田 フランスがファイナンスをやっていますからね。

吉岡 その後はフランスでずっと仲良くなった人がいて。せっかく日本とも関連が強かったんですけれど。

立田 彼もアーティストですよね。もともと建築家で。彼もプラープダーやペンエーグと同様におぼっちゃまらしいですね。

吉岡 医者の家庭に育っていますね。

立田 そうでなければ、建築やってその後映画留学するなんてできないですよね(笑)。みんないい家庭の出なんですね。現在のタイの文化の中でそういう帰国子女たちの占める位置づけというのは、どんな感じですか? オピニオンリーダー的な役割を担っているのですか?

吉岡 海外留学とは関係がないかも知れませんが、芸術の世界では、どうしてもマイナーになっちゃいますよね。ペンエーグ監督は作れば作るほど客が離れていっちゃって。一部、映画の勉強をしている人々にはとてもリスペクトされていますが、そうした層は薄いですから、そうなると儲からないので海外基盤で頑張っていくしかないんですよ。

立田 でもプラープダーとかは雑誌の表紙になったりするわけですよね。注目を集めているのでは?

吉岡 それはたぶん、中身がどうこうというのではなく、ルックスがいいとか、賞もちゃんと取っているのに彼女が女優さんで、こんな作家もいるんだ、というところでは。発言が面白いという支持はあると思うんですけれど。

立田 例えば浅野忠信くんとかも、もともとはカルト的な位置づけだったわけですよ。雑誌の表紙になっても一般人は知っているわけではなくて、若者のユースカルチャーの中でのヒーローだったり、アート系の映画を見る人たちの中での注目の人だったりしたわけで、でも今ではもっとマスに認知されるようになってきましたよね。

吉岡 プラープダーさんの場合、逆かも知れないです。認知が一気にあがって、そこから落ち着いてきているような。本人もたぶん嫌なんだと思うんです。1回認知がすごく上がったとき、請われるがまま広告やテレビに出たりしていたんですが、イメージがひとり歩きしていっちゃいますよね。彼がやりたいことは恐らく、セレブリティとして何かをすることではないんだと思うんですよ。いろんな話が舞い込んできて、締め切りに追われるようになるのが嫌なんだと思います。今は自分のやりたいことをやって、常にメディアに出てくる感じではないけれど、みんな、ああ、プラープダーさんね、と分かる位置づけになってきたんです。

立田 本人にとっては居心地のいいポジションに来たということですね。

※写真は、雑誌「a day」のカバーモデルとなったプラープダー。
<タイカルチャーの中の日本>



吉岡 そもそも、タイでずっと人気が続いている人って、ほとんどいないんですよ、バード(・トンチャイ)以外。特に映画がそうなんですけど、看板女優とか看板俳優みたいな人が最近全然いなくて、『マッハ!』に出てくるトニー・ジャーはちょっと頑張っていますけれど、あとはほとんどの作品で必ず誰か新人が出てきます。新しもの好きなのか、とにかく新しい人、新しい人と出てきて。タイでは、どうしても文化の担い手となる層の薄さは否めないと思います。日本では中流層を想定するのが簡単じゃないですか。でもタイで真ん中って考えられないんですよ。地方は農家が多くて、貧富の差も激しいですし。

立田 日本のサラリーマンみたいな感じの人が少ないんですね。

吉岡 プラープダーさんは、タイでもっと日本の漫画を紹介したいと言っていますね。それは、向こうに行っていないジャンルがまだまだいっぱいあるからなんです。例えば典型的なのが『課長 島耕作』とか、OLさんが主人公になったものとか。日本では普通に読者層として想定されうる中間層のオフィスワーカーが、タイではポッカリ空いている感じなんですね。少なくとも需要の層としては。日本の漫画が今、タイで人気があると言われていても、『未来少年コナン』とかファンタジーや子どもの世界がほとんどになっちゃって、ちょっとリアルになっていくと、あまり行かないんです。でもそろそろ行けるんだと思うんです。日本の感覚で言えば月収20〜30万ぐらいでボーナスもあって、お金を貯めれば1年に1回は海外旅行に行けるという人々が、やっと層として出てきたと思うんです。そういう意味では、漫画ももっと入って行けるかも知れないですね。

立田 サイアム・スクエアに漫画喫茶ができたって書いてありましたね。

吉岡 実はそれ、もう潰れちゃったんです(笑)。漫画の性描写などが不適切とクレームがついて。でもメイドカフェ「ぴなふぉあ」のバンコク店は人気のようです。

立田 私たち日本人も、映画界の人ですら、タイ映画に対する偏見というかイメージは一定していますよね。やっぱり超エンターテインメント。トニー・ジャーみたいな世界のほうが一般的だと思うんですよね。ジャンルが偏っていて、エッセイ(「トラックがすし詰めなら」)の中でプラープダーも嘆いています。あれは本当にそうなんですか?

吉岡 そうなんです。お化けかオカマか…、とにかく3種類くらいしかないんです。ある程度しょうがないと思うんですよ。ショッピングセンターに付随しているシネコンがいっぱいあって、入場料は日本人の感覚でいうと800円から1000円くらい。ちょっと寄って映画でも観ようかと、どれでもいいから入るという人が本当は多くて、でも10スクリーンあったら、7〜8スクリーンはハリウッドのブロックバスター映画になっていますから、それと並べられるものと考えると、クオリティの追求はなかなかできないですよね。すごくローカルなネタで笑わせる、日本でいえば明石家さんまさんが出てるとか、吉本のお笑い芸人の、あの彼が警官役やってる、ははは、みたいな感覚で盛り上がらざるを得ないんです。トニー・ジャーはまじめにエンターテインメントを目指していますが。

※写真はバンコクのコスプレイヤーたち。宇戸清治教授の撮影。
<相互の視線に深いギャップ>

立田 プラープダーは最初、映画評を書いていたんですよね。その映画評はどういうものだったんですか?

吉岡 英字新聞『ネイション』に英語でしばらく書いていたんです。いつも署名が「Prabda」となっていて、プラープダーさんのEメールアドレスが書いてありました。はじめ僕はそれが誰なのか全く知らないで、けっこう面白いので切り抜きしていたんですよ。面白いというのは、解説自体がすごく独自というわけではなかったのですが、とりあげる映画が、誰が読むんだろうというくらい一般的じゃないんですよ。小津安二郎のことも書いていたりして、でもそんなDVDはタイで売っていないし。

立田 エッセイにもありましたけど、タイではアート系の映画をかけるアートシアターは、まだまだマイナーなものらしいですね。

吉岡 今は、少しありますね。

立田 私、映画館はサイアム・パラゴンにあるあの大きなシネコンしか行ったことがないんです。

吉岡 設備はすごいですよね。

立田 パラゴンに関しては、ショッピングセンターとしては日本より進んでいると思いました。建築的にも、入っているブランドとかも。はっきり言って、表参道ヒルズ、恥ずかしい(笑)。広さとかブランドの揃え方とか、その面積もすごい。タイへ行くと必ずパラゴンは行きます。1階はフードコートになっている。「大戸屋」とか和食屋さんも入っていて。

吉岡 大戸屋は今、タイでイメージがいいんですよ。

立田 紀ノ国屋のような高級スーパーもあって、日本やイタリアの食材、フランスの高級ワインもすべて揃っている。

吉岡 便利さの追求の意味ではすごいと思います。どこに行ってもショッピングセンターの仕組みはあんな感じですよ。向こうからこっちを見ている目と、こっちからバンコクを見ている目に、すごいギャップがあります。バンコクは変わる変化が早くて、2000年ぐらいから変わり続けていると思うんですけど、行くと急に変わっているのにびっくりする人が多いですね。

立田 毎回驚いています。今、バンコク映画祭はパラゴンの上でやっているんですよね。バンコク映画祭はよくなってきているんですか?

吉岡 昔に比べると予算が減っちゃったと思うんですよね。プログラミングはよくなったと思うんですけど、セレブを招待したりする華やかさはちょっと減ったのかも知れません。

立田 去年か一昨年は、カトリーヌ・ドヌーヴも来たとか。

吉岡 せっかくバンコクの映画祭なのに、外部委託で演出して、しかもハリウッドの真似みたいなことをしていいのか、という声もあったみたいです。
<外国を描くリスクを超えて>



立田 外からの視線と内側の感覚のギャップということを考えれば、『座右の日本』も、日本について外人が映画を撮るのと同じように、リスクも背負うわけじゃないですか。日本のことは日本人のほうがよく知っているわけで。それで何か気を付けた点はありますか? 私は読んでいて、違っていても面白い、みたいなところがあると思いましたが(笑)。

吉岡 以前、彼が言っていたことがあるんですけど、あやふやなデータに頼らなければいけない時はすぐ避けちゃうと。自分で書けることしか書かないんですね。だから気負って、無理して書いている感じはないですね。訳出で何か間違いを補正したり、ということもしませんでした。『ロスト・イン・トランスレーション』についてのエッセイ(「彼女が東京を選んだ理由」)もここにありますが、立田さんとしては彼の映画批評はどうですか?

立田 『ロスト・イン・トランスレーション』に関しては、彼にインタビューした時に聞いたことがあるんです。口頭だということもあって、エッセイに書いてあることよりも辛辣なことを言っていましたね。ソフィア・コッポラという特権階級の人が上から見下している感じがする、と言っていました。すごく表面的だと。私はプラープダーとはちょっと意見が違うんですけど、簡単に言うなら、アメリカ人というのはこんな感じの見方をしているんだと分かって面白い、と思ったんです。本当のことを見るかどうかが問題ではなくて、日本の勉強もしないで日本の文化に興味も知識もないアメリカ人なら、こんなふうにしか日本を感じない。外国に行ったら積極的に理解しようという日本人と対照的に、アメリカ人はどこにいっても自分たちがスタンダードという意識なんだということが分かったという(笑)。

吉岡 そういう意味では、正直な映画ですよね。

立田 外国のことを語ったり、描いたりするのって実は、アーティストにとってリスキーで、ソフィアにしたってあの映画で自分がどのくらいのレベルの人間かジャッジされてしまうわけじゃないですか。そういう意味では無防備な映画ともいえるし。もっとインテリだったら、自分がどう見られるか気になって、ああいう映画は撮らないと思う。そういう意味でも面白かったですね。プラープダーにしてもそうですけど、外人が見た時に100%日本人と同じように感じることって不可能だし、そうする必要もないと思うんですよ。ズレがあったらズレがあったで、それは面白いと思う。外からはそう感じることが分かると日本人も受けとめるべきじゃないかと。そういう意味でも、プラープダーの視点は面白かったですね。龍安寺も外人さんに人気のお寺ですよね。日本人はたぶん、ああいうところには行かないですから。

吉岡 修学旅行で行ってるかも知れないですけど、すぐ忘れちゃいますよね。

立田 だいたい外人さんが行くお寺って、京都でも決まっていて、そこは英語の解説があったり、英語のできるお坊さんがいたりと、テーマパークに見えるのはしょうがない。名前は忘れましたが、ハリウッドの方がみんな行くところがあるんですよ。そこは配給の人とかも一緒にお供しても、外人の方以外はお断りって言われて、外で待ってなきゃいけないんです。怪しいんです(笑)。そこでお坊さんたちはなにを教えているんだろうと(笑)。

吉岡 他に、この本でプラープダーさんが取り上げた邦画の見方で、何か感じましたか?

立田 どこの国でも同じようなことがいえるのかもしれませんが、日本映画に関しては、日本人と外人の温度差がありますね。エッセイにもあった是枝監督の『誰もしらない』もカンヌ映画祭に出品されましたが、日本人批評家により、ウケるんです。『春の雪』もそうですね。先ほどもいったように、日本人が外国を知っているほど、外国人の方は日本を知らない。そういうこともあり、日本的なものを美化し、自分たちと違う感性――とくに日本的だと外国人の方が思えるような作品は、本来よりも高く評価されている気がします。
<ディスカバー・ジャパン>

吉岡 プラープダーさんも日本語ができてない部分があるので、知らないことはたくさんあると思います。誤解しているかどうかは分かりませんが。この人がもし日本語できるようになったら、どんなになっちゃうんだろうと思うことがありますね。

立田 そうですね。このエッセイ集を読んで、プラープダーは私より日本のあちこち行ってるという事実に驚きました。私なんて、高野山も行ったことない(笑)。不思議な“ディスカバー・ジャパン”体験でした(笑)。タイからの観光客の方は、みなさん、彼のように積極的に日本中を旅されるのですか?

吉岡 せっかく来るならというので、あちこち行きますよね。

立田 地方だけでなく、プラープダーは、東京でもいろんなところに出没していますね。

吉岡 日記を読むと「今日は○○○を歩いてみよう」とか書いてありますが、それがすごく新鮮でしたね。僕たちはそんな意識的に東京を回ったりしないじゃないですか。

立田 今日は、下北沢に行ってみよう、とか思わないですものね(笑)。用件がなかったら行かないですから。住むってそういうことなのかなと反対に知らされましたね。

吉岡 実はプラープダーさんを自宅に泊めたことがあるんです。練馬区にある80年代に建てられた古いアパートなんですが。別のタイの人にも何度も来てもらったのですが、池袋から電車に乗る時間も長いし、最寄駅から10分くらい歩くしで、ほとんどの人が嫌になって帰っちゃうんです。ところがプラープダーさんは、そうは考えないようでした。閑静な住宅街でいいし、途中の景色も平和で、10分くらい歩いている間にいろいろ考え事が出来るから気に入ったというんです。そんなふうに、普通のことに自分なりの何かをちゃんと見い出せるって、すごいことだなあと思いましたね。『座右の日本』には、肩の力が抜けているからこそ、彼本来の発想の面白さが顕在化していると思うんです。

立田 この本は、比較的批評っぽい長文に、短めのエッセイが挟まれた構造ですが、とても批評精神がある一方で、「みかんの皮」なんて、若い女の子のタレントさんがブログで書くようなたわいもない感じに近いじゃないですか(笑)。そういう意味で、すごく現代っぽいところもあるんだけど、分析とかアーティストの話になると、急にきつい視線になって古風なところもあって、アンバランスというか、同じ人間でもちょっと温度差がある。たぶん読者は「この人っていったい、どういう人?」って思うんじゃないでしょうか。読者の皆さんにも、読後に浮かんだプラープダーの人物像を聞いてみたいところですね。
2007.11.12 収録 
■立田敦子(映画ジャーナリスト)
学生時代より編集者、ライターとして活躍を始め、その後、映画ジャーナリストに。インタビューする映画人は年間100人を超える。『FIGARO JAPON』 『ELLE JAPON』『VOGUE NIPPON』『エスクァイア』『キネマ旬報』などで映画評やコラム、インタビュー記事などを執筆している。公式ブログは、こちら(http://ameblo.jp/cinemanohanazono/
■吉岡憲彦(国際交流基金職員)
1974年生まれ。早稲田大学第一文学部卒業後、国際交流基金(http://www.jpf.go.jp/)に入社。1999年から2004年まで同基金バンコク日本文化センター勤務、現地での日本映画祭、展覧会、舞台公演などを担当。帰国して現在は、国際交流基金芸術交流部造形美術課職員。共著に『アジア映画』(作品社)、翻訳書としてプラープダー・ユンの『地球で最後のふたり』(ソニー・マガジンズ)などがある。
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