立田 吉岡さんがあとがきに書いていらっしゃった「タイの遅れてきたポストモダン」という指摘は面白かったですね。『地球で最後のふたり』の撮影現場も取材にお伺いしましたが、そのときに初めて彼の文章を脚本というカタチで読みました。印象的なものですが、ちょっと村上春樹さんに似ている部分があって、もしかすると影響を受けている部分があるのでは?と思ったんですね。村上春樹さんは、登場した頃は、よく翻訳文体とよく言われましたよね。私は、もともと彼は海外に出していくことを狙って最初からあの文体で書いていたんじゃないかと思うこともありますが、プラープダーの場合はもちろん米国で生活した経験もあることもあって、通常のタイの作家とは違った発想や文体になるのかなと勝手に想像していたのですが。
吉岡 村上春樹さんのエッセイの時の文体に通じるものは、ちょっと感じたことがありますね。プラープダーさんは、小説の時とエッセイでは全然違います。特に初期の頃は、小説ですごく実験がしたかったんだと思うんです。彼はアメリカで美術を勉強していたこともあって、書くことも好きだけれど、発想はアーティストに近くて、これまでと違う何かをやろうということがすごく大きかったんだと思うんですね。たまたま最初に入り込んだ場が、新聞で批評を書いたり、雑誌でエッセイを書いたりすることでしたから、そこで発想のトレーニングを積んで、アート作品として短編小説を書くという流れを得たのだと思います。
立田 彼もその辺のところは直接的には言わないですものね。第三者のことについてはすごくはっきり発言するけれど、自分のことについて多くを語るタイプではないですものね。日本の雑誌で連載して、それを訳されていた中で、あ、こういう人なんだ、と新しく発見したことは何かありますか?
吉岡 自分の感覚をすごく大事にしますよね。それは初期の頃よりも、最近のほうが思うようになりました。あまり無理をしないで。届く範囲以上のことはあまりやらずに進んでいくイメージがあります。
立田 彼の場合、旅が好きだというイメージもありますが、反対にすごく籠もったイメージもありますね。何もない部屋で一週間ぐらいいても平気そうな。内面的な面と外交的な面については、どうお感じですか?
吉岡 そんなに社交的な感じではないですね。確かに籠もるイメージがあります。プラープダーさんとそんなに外で会ったりはしなかったですが、逆に、会った日は、せっかく会ったんだから、と食事のあと飲みにも行って、かなり長い時間を共有する、というように、その両面をうまく切り替えているんだと思います。
立田 エッセイの中でも、六本木に友人の夜遊びにつき合っていって、自分は中抜けして青山ブックセンターに行くとか(笑)、終電の時間になったら帰るとか、そういうところが村上春樹の小説の主人公みたい。内向性とアクティブな面と両方あるような。まあ、作家でパーティ得意な人ってあまりいないでしょうけど。ところで彼は、普通のタイ人とは違いますか?
吉岡 日本に対する独特なスタンスを持っていますよね。日本がすごく好きと言っていますが、普通、好きな人って、仕事をやめて来ちゃうとか、猛烈に日本語を勉強してはまっていっちゃうとか。あるいは日本が好きという意味がイコール、ディズニーランドが好きとか、浅草が好きとか、そういう典型例が多い中で、入り込み過ぎずに、いろんなことに興味を持っているという立ち位置が、とてもユニークな感じはしますね。
※写真は、初期の短編集の表紙。
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